第4回 「瀬戸内編集デザイン研究所」主宰 宮畑周平さん。 ( 2014年05月01日掲載 )

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生きざまレポート第4段は東京から少し離れて愛媛県の弓削島にて編集者として活躍されている宮畑周平さんです。
宮畑さんはフリーペーパー「ラボラトリー」の立上げと1号目を創刊した初代編集長でもあります。
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山下大学を出てニュージーランドへ行かれたそうですね?
宮畑さんもともとは大学を卒業した後に漠然と海外へ行ってみたいという思いがあったんです。何も知らずに日本で就職してしまうより、もっと世界の色々なものを見てみたかった。
そこで卒業後ニュージーランドへ1年間のワーキングホリデーに。
語学学校や地元の高校で英語の勉強をしながら、そこで縁のあった家庭にホームステイしたり、スキー場で働かせてもらったり、合間に色々見てまわって、友達もできたり、この時の経験は本当におもしろかったです。
山下で、帰国してから商社へ就職されたと。
宮畑さんそうですね、むこうに1年ほど滞在。2000年の10月頃に日本に帰国して、2001年の10月から、ある商社に勤め始めました。
おいおいは駐在員にでもなって海外で暮らしたかったんですね。
山下でも、辞めてしまったのは?
宮畑さんええ。仕事は勉強になりましたが、内容にどこか漠然とした違和感もあって。
営業って自分の担当する商品を好きかどうかに係わらず何としてもそれを売らなければならないし、それからどうも海外へ赴任する人が幸せそうでない場合があることが見えてきた。
つまり、どこで仕事をするかというより、どんな仕事をするかという方が、人生にとっては重要なことなのではないかと思うようになりました。
では自分の仕事ってなんだろうか?と…
そんな時、ワーキングホリデー時代の友人づてに桑沢の卒業生の方に出会ったんです。
デザインなら、『自分の仕事』になるかもしれない。そこで一念発起して5年ほど勤めた会社を辞めて、夜間部スペースデザインコースへ入学しました。
30歳になった年でした。遅いスタートでちょっと恥ずかしいですが(笑)
山下すっかり大人になってからの勉強はどうでしたか。
宮畑さん桑沢授業は今でも新鮮に覚えています。
なかでも森川嘉一郎先生の、将来自分が独立した時の事業プランをデザインする授業や、御手洗陽先生の“映画の中のメタファー”、書道家や建築家などの多彩な分野のプロフェッショナルの連続講義などは価値観が広がるきっかけになりましたしね。
桑沢では、デザインそのものの授業もためになりましたが、先ほど言ったような「デザイン周辺」の授業を受けられて良かったと思っています。それがいまの仕事を選ぶ伏線になっているんじゃないでしょうか。
山下自分の基礎になった記憶に残る授業に恵まれたんですね。
宮畑さんそんな桑沢の授業の中で、編集事務所フリックスタジオの磯達雄さんのご紹介で、建築事務所のライフアンドシェルター社さんで2週間ほどオープンデスクをさせてもらったんです。
オープンデスクの最後に打上げを開いて頂いたのですが、その時に一緒にオフィスをシェアしていたフリックスタジオの高木伸哉さんと話していたら、話が盛り上がって気付いたら朝まで飲み明かしてたんです。
で、建築事務所でインターンしていたはずが、気付けば隣の編集スタジオ(フリックスタジオ)でバイトをするという事になりました。
山下なるほど。さて宮畑さんと言えば「ラボラトリー」の創刊が印象深いんですけど。
宮畑さんそんなこんなで編集のアルバイトをしながら、自分の中でぼんやりとメディアを作ってみたいという気持ちがあったんです。
そこで、自治会で顔なじみだった星毅くんをはじめ、昼間部・夜間部の関係なく、学生で作るフリーペーパーをやろうと準備を始めたんです。
ちょうど卒業前の2007年の10月頃ですね。
桑沢デザイン研究所だからというのと、たゆまない実験をする媒体でありたいという理由から、タイトルは研究所=ラボラトリーでいこうとまとまりました。
2007年の12月頃には取材したりお金を工面したりと創刊準備をし、2008年3月末に晴れて創刊号を発刊しました。
創刊までの段取りなんかは、社会人時代の経験が大きく活きましたね。でも、昼間部夜間部問わない立上げメンバーが揃った事や、夜間部の学生会に在籍した事もあって色々な人と交流をもっていた事が大きかったです。あの時はじめたラボラトリーが、きちんと今でも続いているのは嬉しいですね。
山下卒製のない夜間部だからこその挑戦だったんですね。
宮畑さん卒業後フリックスタジオへ就職しまして、そこで4年ほど勉強をさせてもらいました。
好きな編集の仕事をしながらでしたが、またちょっと考えるところもありました。東京でこの先も暮らしていくのかなと。
東京は刺激的で面白いけれど、自分にとっては、ここにいる必然性はないしね。
もともと大学時代にワンダーフォーゲル部にいた事もあって自然や田舎に興味があって。将来もしも子育てするなら、やっぱり自然があってゆっくりした時間の流れる所がいいかな、と。
そんな時に、地元の同窓会で今の妻に出会ったんです。
ちょうど妻の父が弓削島に築100年の空き家をもっていまして、2010年の4月にはじめて弓削島へ行って少し滞在したんですね。
島ならではの海と山に囲まれた豊富な自然と、顔見知りばかりの島民の小さなコミュニティの距離感。歴史を重ねた古民家など、はじめて来たばかりでしたら、ここに住みたいと思いましたね。
山下で、弓削島へ移住するんですね。すごい決断。
宮畑さん弓削島との出会いから1年後の2011年4月に、いよいよ島へ移住する事にしました。
仕事も辞めてゼロから再出発するつもりだったのですが、高木さんの「じゃあ、うちの瀬戸内支店をつくったら?」というありがた〜い一言で、サテライトオフィスのような形で、島ぐらしをしながらフリックスタジオの仕事を続けられる事になりました。
期せずして、島ぐらしの編集者として生活をしていく事になったんです。
ここでフリックスタジオの仕事だけではなく、自分で編集事務所「瀬戸内編集デザイン研究所」を設立しまして。地元のNPO法人向けに広報誌創刊のお手伝いなどもさせていただきました。
山下二足のわらじは両立できましたか。
宮畑さん現在はフリックスタジオは退社し、フリーの編集者になっています。
いま(2014年4月現在)弓削島にきて丸3年。まだ、自分はここで何ができるのかを模索中ですね。
ここにきてから古民家の調査をやって記録本をつくったこともあります。
編集仕事のかたわら、町の観光をつくっていくというミッションで観光協会に所属して仕事をしています。
僕はたまたま社会人の経験をしてから桑沢に来る事になって、ご縁が重なってこうしてここで暮らす事になりましたが、やっぱりずっと探し続けていますね。
山下最後に同窓生にメッセージを。
宮畑さん同窓生の後輩さん達には、自分の居場所を見つけて欲しいと思います。
ぴったりできるフィットできる人、場所、仕事を見つけて欲しい。
自分がここにいるのが当たり前だと思わずに。
そして、外に出て行く勇気を持って欲しいです。海外でも良いかもしれないし、僕みたいに島ぐらしも良いですよ。
デザインの仕事は都市部でしかできないわけではないですし、インターネットなどのインフラの進化で仕事の仕方は変わってきています。ここが自分の居場所だ!と思える場所を見つけたら、思い切って飛び込んで、限られたささやかな大きさでも、自分らしい何かを残していって欲しいですね。