
第2回 坂本和正さん 坂本菜子さん 夫妻 ( 2011年02月10日掲載 )
●坂本和正…家具・インテリアデザイナー。皆川正デザイン事務所。坂倉準三建築事務所(現坂倉建築研究所)、豊口克平デザイン研究所を経て、1974年、方圓館を設立。教会、博物館、学校、福祉施設、住宅などの家具やインテリアデザインを手がける。やがて象設計集団と出会い、宮代町 進修館の設計チームに誘われたのを機に彼らの創作姿勢に共鳴する。1988年東京サレジオ学園のインテリア家具で吉田五十八賞受賞。最近では2009年完成の津山市の「洋学資料館」など。
●坂本菜子…芦原義信建築研究所で芦原義信氏の秘書を務めたあと独立。フリーランスでインテリア、I.D.、編集のコーディネートを手がける。1987年、坂本菜子コンフォートスタイリング研究所を設立。デパート、駅、オフィス、公園、学校、病院などのトイレを中心に実態調査、研究を行い、新しいトイレのあり方を企業や公共団体に提案している。

前回のVol.1から早、半年強……ここは多摩川にほど近い瀟洒な低層マンション。陽の光が降り注ぐ広いテラスに、坂本氏がデザインした椅子の数々が浮かび上がる。今回はぐっと落ち着いたアダルトな先輩カップルにお話を聞いたクワコン取材班。日本デザインの黎明期に立ち会った情熱的なエピソードに感動しつつ、いつの間にか場は宴となり……大丈夫か取材班!?
〜桑沢学生時代〜 |
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(おもむろにエルビス・プレスリーのアルバムを再生する和正さん) | |
和正さん | この時代だったからね。音楽はプレスリー、映画はジェームスディーン。「エデンの東」や「理由なき反抗」。 |
編集 | あ、在学当時に流行っていたものですね! お二人は1958年に入学、2年後の1960年に卒業されましたが、当時の桑沢はどのような環境でしたか? |
菜子さん | 渋谷の校舎(現在の場所)に移って初めての生徒が私たちでした。屋上からは東京タワーの作りかけが見えて、今の代々木競技場はワシントンハイツ(米軍上級家族住宅)でした。広い芝生があって、鉄条網の中に番犬のシェパードがいました。クラスの男の子が、大胆に肌もあらわな格好で日光浴するアメリカ婦人を双眼鏡を持って来て覗いたりして……(笑) |
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和正さん | クラスには飲んべえがかなりいてね。山田脩二さんや中西元男さんや……高校を出てすぐ、または一浪はクラスに3〜4人しかいなくて、あとは年がバラバラで個性的な人が本当に多かった。中でも私たちがいたグループの中心は、九州出身の山田耕雲和尚。駒大卒で仏教以外にも地学や何やら6年以上学んでから入学してきたから、結構年上だったんだよね。在学中も卒業後もこの耕雲さんの所がたまり場になっていて、飲み会というよりは酒を飲む程に小難しい話になっていく集まりだった。 |
菜子さん | 主人は桑沢を志望することを、父親にすごく反対されたそうですよ。 |
和正さん | 父は洋画家でね、(デザインも同じような仕事だときめこんで)食えない職業だろう、というのが反対の理由だった。銀行員とか、いわゆるサラリーマンになって欲しかったんだよね。でもどうしてもデザインをやりたければ、とにかく学費の安い芸大に行けとなった。まったくもって父の理由ははっきりしているんだよね。しかし倍率が高く結果は不合格。一浪して予備校に行ったりして腕は上がったつもりだったが、学科で落ちてしまって(笑)。そこで、当時見ていた「美術手帳」や「リビングデザイン」の情報で桑沢を知り、どうしても入りたいと父を説得するんだけど猛反対。殴り合いのケンカになりそうなくらいもめた。 |
父は私を連れて、友人の画家でありデザイナーでもある山名文夫先生(資生堂花椿マークで有名)を訪ね、「こんな学校でだいじょうぶですか?」とかなんとか出来るだけやめさせる説得工作にでた。すると先生はにっこりして「坂本君、桑沢はこれからはとてもいいよ」と逆に勧められてしまった。父はその帰り道で「やぶへびだった」とがっくりしていたよ。(笑 | |
菜子さん | 私は、通っていた和光学園の図工の先生に進路を相談しました。家政科や美術系など、普段の生活にプラスになるようなことを勉強したいと言ったところ、「それならこれからはデザインを勉強するのがよいでしょう、桑沢がおすすめ」ということになりました。そういえば桑沢受験の日は、その先生と母がついてきたんですよ(笑)。その時の面接官は、佐藤忠良先生でした。 |
和正さん | 試験会場はまだ工事が終わっておらず、サッシにガラスが入ってなくて寒かったなあ。校舎自体もまだ半分しかなかったし。 その時の入試問題は紙をくしゃくしゃにしてそれをエンピツで写生しろとか、そんなものだった。 |
あとは面接で「月謝は払えますか?」てそれだけ(笑)。 たしか英語の神之村黒白子先生だったなあ。 |
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編集 | 学生時代のお二人は、かなり真面目に勉強されていたのでしょうか? それとも…… |
菜子さん | 主人はクラス委員もやっていたし、かなりちゃんとやっていましたよ。 |
和正さん | 高校の美術クラブでモダンデザインらしきものをかじっていて、亀倉雄策先生が審査員だった高校ポスター競技で一席を獲ったりしてね、ちょっとテングになっていた(笑)。自分はできる、と思って桑沢に入ったのに、実は周りにもっとできる奴がいっぱいいて、たとえば山田脩二君の独特な形の感性や丸山欣也君の並外れた発想力など、そして他の級友たちにも、いろいろ私にはないものが沢山みえて、自分の幅の狭さを思い知らされたよ。隣のクラスにはUG・サトーさん、夜間二部には高梨豊さんもいた。そんな訳でテングは気を取り直すヒマもなく桑沢のフィールドで出直すはめになった。こうして課題の制作過程では「それは何だ」「このやり方でどうだ」と級友達と、時には先生までもまきこんでの毎日の議論に加わったよ。 |
菜子さん | むつかしいことが良くわからない私には、議論だらけにみえた。 |
和正さん | 別にクソマジメだったってワケじゃないんだ。放課後は渋谷、五反田周辺の安い飲み屋に出入りしたり、人の家にも上がりこんで飲んで騒いでね。 今思うと学校でも外で仲間達と過ごす時でもいつもがプラスでタメになった。 桑沢時代は、人との出会いがとても大きい。 2年目になるとさらに貪欲に、耕雲さんの発案で英語のデザイン理論書「Vision in Motion」を放課後に有志が集まり、わずかなお金を出し合って先生に翻訳の勉強会をしてもらったりして……。 |
菜子さん | 「花の5期生」と主人はいつも言うけど、なんだか独特のクラスだったのは確か。プロとしてすでにやっている人も何人か居たりもしてね。 |
編集 | 熱い桑沢時代だったんですね!!(一同反省)桑沢洋子先生の授業もあったのですか? |
和正さん | たしか1年目の中間に特別講義があったかな……。洋子先生のファッションショーを桑沢の校舎でやったこともあってね、生徒が総出でトンカチ持って設営を手伝った。本番は、当時のしもじもにはお目にかかることがまったく不可能なトップモデルがきて、すごく綺麗でね……。どんなファッションだったかは忘れたけど、(笑) |
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〜卒業から結婚へ〜 |
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編集 | ご卒業後2年でご結婚されたということですが、どんなデートをされていたのですか? |
菜子さん | 土曜日に渋谷の喫茶店で、「人間の歴史」「空間 時間 建築」などの名著を彼が解説してくれたりして……(笑) |
和正さん | 卒業してから渋谷に初めてのパブができてね、仲間に彼女と二人でそこで会った話をしたら、それはそれは冷やかされて(笑)、当時の感覚では「パブなんて軟弱なところで会うのは仲間じゃない!」って。 友人の中にも、「早く結婚してしまえ」というのがいれば、「結婚なんかしたら仕事がダメになる」というのもいて、私は結婚することに決めちゃったから、反対する友人と大ゲンカしたりしてね、「表に出ろ!」っていわれて泥だらけになったり(笑)。で、結婚にふみきることになって、今風に式も何もしないで通そうとしたら、彼女の親戚からダメだといわれ、そうとなればいっそ度胸つけて!ということで紋付羽織袴姿で明治神宮で式を挙げた。先祖伝来の本物の短刀も腰に付けてね。 |
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菜子さん | 彼は指輪の用意をしてくれなかったから、私が自分で買ってきたのよ。 |
編集 | えーっ |
和正さん | デコレーションケーキはお決まりのイメージで嫌だったから、特注の大きいバームクーヘン。それを真剣で一刀両断に… |
菜子さん | でもそれがぜんぜん切れなかったの(笑)。短刀に厚みがあるし、バームクーヘンが硬かったし。 |
和正さん | 二次会は桑沢関係でこぢんまりと自宅で。その次の三次会はタクシーでまた別の所でとなって、自分も行きたいと言いだしたら黒白子先生に「バカ言うんじゃないよ」と止められた (笑) |
菜子さん | 結婚後の生活で主人は【フミニスト】だったのよ。私の意志を踏みにじるから。「俺が幸せになることが君の幸せになる」なんて言って、炊事洗濯の家事は一切やらない。買物にも行かないし。服だって全部私が買ってきたりして…… (しかしインタビュー前、スーパーに飲み物をどっさり買いに行ってくださった和正氏の姿を、取材班はしっかり目撃している。) |
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〜新生活スタート〜 |
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編集 | 新婚生活はどちらでスタートしたんですか? |
和正さん | 両親と住む自宅はあったのだが、人並みに独立したくて耕雲さんの所の二階に四畳半のアパート借りた。で、トイレは二階の廊下にひとつだけあって共同でね。 |
菜子さん | しかも、筋向いの部屋には同級の須賀ちゃん(桑沢で長年基礎構成を教えておられた須賀攸一先生)が住んでたの。クラスでのあだ名は「御前」(しゃべりがゆっくりだったから)。 アパートにはお風呂がなかったから、銭湯に行ってたわ。 主人の事務所は帰りが遅かったから、ひとりで通うには田んぼのあぜ道が暗くてね。 わたし、須賀ちゃんと一緒に銭湯行ってたの。須賀ちゃんがまた長いんだよね〜お風呂が。よーく銭湯の出口で待たされてさあ。 たまーにあなたとお風呂に行ったのよね。 |
編集 | 須賀先生が思わぬ話題で飛び火を食らってますな。(笑) |
菜子さん | そんな場所、土日になると一階の耕雲さんの十畳間に友人たちが集まってくるの。耕雲さんはなんでもできる人で、勉強だけでなく魚のさばき方から煮つけまで一流、週ごと友人たちが交代で料理を披露することになったのだけど、私の担当の時私の食事を「菜ちゃん!こんなもの食えねーよ」とその場で突っ返されたの。料理から配全のタイミングまで教わったわ。 たまにはというか頻繁にというか私たちの二階も人は押し寄せ、四畳半のところに十三から十四人、すし詰め状態! 本当に小さ〜な台所でわたしが料理役で、みんながしゃべるの。 |
和正さん | 一階では毎晩、一升瓶がずらずらって並ぶんでね。それでもまだ足りなくなって太平山っていう二級酒のやっすいのを夜中の11時過ぎに酒屋の裏口をドンドンたたいてやっと開けてもらい買いにいくんだよ。(コンビニなんかどこにも無い時代だから) |
さすが耕雲さんの求心力でいろんな人が集まったよね。ドレス科の近藤信一さん、後に私と方圓館を立ち上げた木工職の服部敬三さん。桑沢の下級生、桑沢以外の人にも画家、前衛音楽家、映画監督、教師、会社勤めの経理士そのほかもろもろ。 | |
菜子さん | みんなが言い合っていて、「じゃ帰れよ!」ってなっても何かと理由をつけて帰らない建築評論家なんて人もいたのよ。また、そういう集まりを、怖いとか嫌だとか感じる人は出ていっちゃうのよね。また、そこまで激論したくないとか、個人の事までいちいち厳しく干渉されたくないひとはいつの間にかいなくなるのよ。 |
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編集 | 菜子さんは激論には加わらなかったんですか? |
菜子さん | だれもが私にも他の人にも厳しかったわ。 とてもとてもというレベルで加われなかった。 でもその場からは逃げ出さないでこの人はこうだな、あんな考え方があるのねって、見てたわ。 よく食べて、よく呑んで、よくしゃべってたわよね。 だから新婚生活にふたりだけっていうのはほとんどなかった。 |
和正さん | 新婚旅行だって、耕雲さんがコースを決めてくれたんだ。まだ交通が開けていないまったくの秘境の奥能登・白川郷にいったんだよな。 |
菜子さん | 普通の人達は熱海や宮崎に行ったりが新婚旅行のコースだったけど、でも普通の人がやることじゃないことをやってきたっていうことが、私たちなのかな。 まわりがけしかけもし、私たちもそれに乗って、というのが私たちの新婚だったわ。 |
〜おふたりが社会に出た頃…〜 |
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菜子さん | 主人は卒業後一年ほどして建築家坂倉準三先生の事務所に席を置くことになり、私はやはり卒業後建築家芦原義信先生の秘書になるお話があったのでお受けしました。設計は向かないので、コーディネーションがいいかな、と思っていたものですから。これでお互い建築界での付き合いがどんどん広がって行きました。 |
和正さん | 坂倉準三先生のところでは家具の部門を受け持たされたが、当時の先生は自分の息子くらいの私を差別なく真剣な顔で相手してくださった。4年くらい働いたかな。担当した仕事には、東京オリンピック1964の羽田サインボードとか、札幌のホテルのこの「めがね椅子など」もあったのだよ。 |
だけどなまいきにも、もっと生活臭いデザインをしたいと思い、坂倉先生のところをおいとましたのだ。 その日のうちに菜子を六本木の「クローバー」という喫茶店に呼び出し、「いま辞めて来たよ」と伝えたんだよね。 そしてその頃すでに九州へ戻っていた耕雲さんの工房「半個林」へ半年くらい単身滞在したり。生活費はまったく稼げないから、家内の給料に頼るのみ「ひも」ですよ。 でも「俺が幸せになることが君の幸せになる」と決めていたからね。 |
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編集 | いろんな意味で都合がいいですね!(笑) |
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和正さん | 耕雲さんも心配して「東京に帰って、就職しろ」って。 で、東京に帰り履歴書書いて、いろいろ設計事務所回ったんだよね。でも全然採用されなくて… |
当時、モントリオール万国博の日本館を芦原先生が設計してて、中のディスプレイを桑沢の時習った豊口克平先生がやってたんだよね。その仕事はもう三分の二以上進んでいたんだけど、追い込みで人手が足りなかったみたいで芦原先生が豊口事務所に(たぶん無理やりに)紹介してくださった。桑沢時代のつっぱっていた私を覚えていた豊口先生は「な~んだお前さんかァあんまり勝手なこと言わないなら雇ってもいいけど」って、働くことになったんだよ。 そから、8年くらい働いたかな。 |
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編集 | 菜子さんはどうして「トイレ」の仕事をおはじめに? |
菜子さん | ずっと建築の業界にいて、トイレがすっごく遅れているなって思って。それで、トイレの研究をしようと思ってたの。そんなとき、中西元男さんがINAXのCIをやってらして、「菜ちゃん、トイレのことを調べて、トイレの世界でちょっとやってみないか」と声を掛けてもらった。 |
それで、「コンフォートスタイリスト」という新しい名前をつけやり始めました。 その後は、私は日本のトイレがよくなるようにと言い続けて仕事に関わってきたの。 |
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編集 | 桑沢で少し下の内田繁さんとは学校で知り合ったのですか。 |
和正さん | いや、内田繁さんとは、学校出てからしばらくして。 1971年に銀座松屋の日本デザインコミッティで若いデザイナーの「13人展」というのがあったんだよ。 |
そのときに、内田さんも私も選ばれて、それぞれ好きな表現をやってくださいって四畳半くらいのスペースがあたえられてさ。 ず~と後になって本人から聞いたのだけど内田さんはあの時私のことを、ひとりだけヤバいヤツがいるなって思ってたって言うんだよね。(笑) |
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ていうのは、わたしの作品は紅白の幕張って、菜子に料理を作らせ、そこで酒を飲んだの。「私の座」っていうテーマだったので。その答えとしてかんがえたのは、我が国では中世から、戦に出て行って野に陣取ると幕張るでしょ。紅白の幕を貼ることで即そこに場ができる。 中央の低い四角い台の上に酒と料理をならべて、作者は一日中そこで飲んでたの。 当時としては、インスタレーションの走りだよね。でも、松屋としては「それは困る」って言うんで、相当やりあったよ。で、結局は相手は「観てみないふりをするから責任は持たない」と変な折り合いがつき押し切った。 |
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さらにおまけがついて、会場の私のプロフィールが髭面の顔写真だったのを見て、大橋巨泉がやってた「11PM」(日本テレビの人気深夜番組)から電話があったのね。当時は髭面は珍しかったので髭特集に出てくれって!もちろん、つっぱってたから「見せ物じゃねぇ」って断ったよ。 | |
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菜子さん | 見た目からはそんな風に見えないでしょ? 私の女友達からは「坂本さんのご主人はお優しそうな人ね〜」っていわれるけど、 ところがそうじゃないの。 |
ホント、めんどくさいひと。そしてとにかく頑固だったのよ。 今回、クワコンの取材を受けるにあたって、私たちの経験からすると、いわゆる新婚生活なんてないほうがいいのかしら、なんて話してたのよ。 |
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私たちの場合は「こんな仲間がいて、こういう影響を受けて」って感じだったから。 みんな仲間が切磋琢磨しながら生きてきた、それが私たちの時代かな、と思って。 昨年暮れのSO+ZO展の1960年代のコーナーには、花の五期生では山田脩二さん、中西元男さん、UG・サトーさん、高梨豊さんそして坂本もいるし、あの一角はすごいよね。 |
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和正さん | そして七十歳過ぎた今、少しゆっくりと時間が流れはじめて、そんなに粋がらないで生きていけるようになったのかな。やっと…。 |
編集 | 当時の熱い、才能ある仲間達とのかかわりあいに少し嫉妬してしまうようなおはなしでした! ありがとうございました!! |